‘最後の忠臣蔵・寺坂吉右衛門’ カテゴリーのアーカイブ

最後の忠臣蔵・寺坂吉右衛門の面影の残る山の道・・寛政の古道「市原峠」を歩く・・あるいは民話伝承の「大餅喰い」を歩く・・あるいは何鹿(いかるが)の里へようこそ・・あるいは・・・

2011/11/06

10月15日峠歩きに最適な曇りでした。参加者は、前日からの風雨、天気予報に流されて一割のキャンセルでしたが、奇跡的ないつもの神に守られて、85名の盛況となりました。(峠歩き70名、藤波神社で合流約15名) 福知山市大江町市原谷を9時過ぎに出発し、峠の上で民話伝承にちなんだ大福モチのプレゼント、その後ほぼ予定通りに綾部市西方町藤波神社に、続々と到着しました。 初めての七不思議ガイドは室町時代の衣装をまねて、「大江山・・生野の道の遠ければまだふみも見ずあまのはしだて・・」と百人一首の朗詠ではじまる試作品です。(ふしぎガイドの今後の展開を楽しみにしてください。と作者より)

とにかく、山の古道、いにしえの峠は両側の村々にまたがって多くの話題、テーマがいっぱい眠っています。今人々がそこを歩くと、眠っていたものがいっせいに目を覚ますようです。DSCF2642.JPG

DSCF2642.JPGDSCF2653.JPGDSCF2664.JPG

DSCF2664.JPG 

DSCF2679.JPG

 

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

大江町「市原谷」から峠を越えれば志賀郷の奥、西方町

2011/09/05

DSCF2008.JPGDSCF2003.JPGDSCF2003.JPGimage0.jpg

由良川右岸、大江町市原谷は峠を越えて綾部市西方町に往来がありました。市原谷ではこの山道のことを「大餅喰い」と呼びならわしています。毎年正月になると市原谷に双方の若者が集まってモチの大食いを競った。なぜかいつも勝つのは西方勢・・くやしがった市原谷勢は・・とつづくDSCF2005.JPG昔話。

村人の往来が絶えてから幾年月、この道はまぼろしの峠となりました。と言えばロマンチックですが現実はこんな感じ、ありふれた植林の道になってしまった・・・しかし、やはりどこかにただよういにしえの記憶、人々の思い出の道です。

元禄15年、赤穂浪士の討ち入り後ただ一人首尾を報告する密命をうけて江戸を離れ、豊岡までの途中ここ市原谷をめざした最後の忠臣蔵・寺坂吉右衛門の面影も、ここ志賀郷の峠のどこかに残っています。

「多分、江戸から京、山家から横峠を経て、志賀郷に入り、市原谷の当主芦田与右衛門為直を訪ねて、峠を越えていったと思われる」というのが、私達のシナリオです。今21代を数える芦田家には大石内蔵助の若いころの手跡が残されていると聞きます。元禄15年当時の当主為直は大石内蔵助の妻リクの実弟でした。

 

 この峠を越えて志賀郷の「三土市」まで行けませんかねえと大江町の友人からオプションがあった時、「歓迎します。大丈夫ですよ」と、今の志賀郷の人ならば必ずするお返事を、私もしました。(自然に口から出た)

この写真は、8月16日大江町側と志賀郷側の4名で現状の下見をした時のものです。随行した私のずり落ちそうなところが何ヶ所かあってそのたびに大声を上げてアッピールDSCF1999.JPGお陰さまで8月28日峠歩きのメンバー5名が峠道の整備に着手。まぼろしの峠がだんだん現実になりました。

(市原谷に通うもうひとつの道「岳峠」はまだ幻のままですけれど。人々の記憶と、絆はどの峠にもまだ息づいています。)

 

 

 

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

 

 

「赤穂浪士」、由良川を渡る

2009/08/11

8月9日(日)小雨の中、決行された<由良川、川舟レース>

台風はまだ来ていなかったので、水の上なので緊張しつつ、わあわあきゃあきゃあと、のどかに進行していました。

加佐ふるさと塾、21加佐活性化協議会の主催。(7月の久田美峠で勉強会のときに知りました。)

   木造の和船で4人一組でオールを漕ぐパドル部門に24チーム(内女性は6チーム)

   一人で漕ぐ櫓(ろ)部門に6人が出場(これは私も体験してみたい、女船頭さん) dscf55631

出場者の住所は、和江、水間、神崎、下東、久田美など、由良川河畔の懐かしい地名が多かった。チームは、岡田上区長会、岡田中のYesWeCan!、地元高校生のエミリー、などなど、市役所職員の7チームを含め、すべてやる気全開のパワフルな、真剣勝負でした。(救命具をつけていても、水の上では、見ている方も緊張しながら笑えました。)

アトラクションの、<47番目の赤穂浪士、寺坂吉右衛門>が由良川を渡ります!

とアナウンスが流れ、大河ドラマ<赤穂浪士>のあの<ゴジラ>のテーマにどことなく似ている重々しいテーマがきこえて、この旋律を知っている人は思わず爆笑!ずいぶん昔のドラマです。

dscf5589_editedやがて、吉右衛門に扮した青年が由良川の堤防を歩いて登場。船頭の漕ぐ伝馬船で対岸の地頭へ渡るひとときのパフォーマンスは、本物を見るようでした。

2004年暮れ、NHKの木曜時代劇で<最後の忠臣蔵>のタイトルでこの寺坂吉右衛門が主人公のドラマを見た頃、私達は登尾峠(城屋峠あるいは丹波峠ともいう)を越えて、向こうの舞鶴市城屋の人々と出会っていました。城屋の人々は、峠についていろいろなこと、私達が知らなかったことを教えてくれましたが、そのなかに、

47番目の忠臣蔵といわれる、寺坂吉右衛門が、綾部の志賀郷を通り大江町の市原谷へ、峠を越えていったという言い伝えについての物語もありました。

吉右衛門は大石内蔵助の命を受けて、本懐を遂げたことを豊岡に住む大石リクのもとへ報告に向かうために、大石リクの弟の婿入り先(大江町市原谷)に立ち寄った後、小原、原谷峠を通り、桑飼下の民家でお茶を所望。そして、川舟レース会場付近にあった宇谷~地頭の渡しを利用して由良川を越えて行ったのではないか・・・と舞鶴の人々は言い伝えておられます。

dscf5593_edited最後の忠臣蔵、寺坂吉右衛門、志賀郷を通る。

 それ以来、寺坂吉右衛門という名前は、知っている人のように懐かしいのです。

NHKのドラマでは、吉右衛門は悩みぬいた末、恋人に励まされて生き抜くという結末でした。  おわり