志賀郷公民館文化祭に展示(戦国の北野城のものがたり)
2013/11/17綾部市志賀郷にも昔、山城があり、志賀氏と名乗る城主がいた。天正10年(1582年)最後の志賀城主は、明智光秀に従って山崎の合戦に戦い、ともに滅びた。残された幼い子息は桑飼村(西舞鶴)にのがれやがて帰農したと桑飼系図が語る。短く語られているこの伝承。私たちは志賀郷地区に何か残されたものはないかといろいろ探しました。室町・戦国時代の郷土史を探るというタイトルの一部です。この山城は北野城と呼ばれている。
この志賀城主と北野城をテーマに、パネル展示を出しました。11月10日志賀郷地区公民館の文化祭。
書かれなかった志賀氏の物語はしかし、志賀郷地区内・仁和町の池ノ谷の界隈に幾つもの痕跡を残している。
明智光秀の命により重臣が建てたと伝わる今宮八幡宮がある。池ノ谷の奥にまつられてあり、ここから貞享三年の池村検地帳が発見されました。(1686年)当時の小字名が現在まで続いていることがわかる。
志賀郷地区にもある諏訪神社、その山上に北野城跡があります。城ガ越しと呼ばれる城下の道のわきに美しい北野池が残っています。(北野城主が開削したと伝わる水源池)
その他、城本、城首、養源寺などゆかりの地名が集中しています。(養源寺は城主の菩提寺)
城ガ越しへの道、左後方が北野城山