志賀の七不思議NO.6とNO.7 しずく松とゆるぎ松
2010/10/31七つの不思議に数を合わせるために、最後に二本の不思議な松の物語をくっつけたといわれていますが、そのころの権力に近い力を持った人物の、いわば地域おこしへの願望のあかしのようにも思われます。(これは私の主観)
そして、しずく松の皮が今でも志賀郷公民館の2階にガラスケースに収めてあります。皮の厚みは十二センチ、推定した幹周りは約十メートルの巨木らしい。どうやって運搬したのであろうか。
明智光秀が福知山上を築く時、このしずく松を捜し当て、切り倒そうとしたが、切った木屑が夜の間に集まってもとの姿になっているので切り倒すことができない。やむなく一片ごとに火中に投げ入れようやく大幹を切り倒すことができた、とは不思議な伝説と思いきや、
「明治の初め福知山城を解体したとき、この棟木を志賀郷村へ返そうという話が持ち上がったが置く場所がないと言う理由で断ったといいます。今になれば惜しいことをしたものです。」と平成15年公民館発行の「七不思議伝説と志賀の里」冊子に書いてあるので、なるほど伝説というものはこのような姿をしているものかと、納得しました。
この写真は明治の学生諸君よりはやく、今年4月初旬に、私の沖縄のいとこたちを案内して七不思議めぐりをしたときのものです。
「明智光秀、丹波をひろめ、ひろめ丹波の福知山」と福知山音頭にうたう丹波攻めよりずっと前から、しずく松、ゆるぎ松は五社の不思議とともに縁起に記載されていて、
「毎年正月6日、午前10時になると松のしずくが雨のように落ちその年の日照り、水害をうらなった。又、しずく松と向かい合ったもう一本のゆるぎ松は、正月の7日の日の出から日中にかけて都によいことがあれば上の方の葉が揺らぎ、悪いことがあれば下の方の葉がゆらいだ、
このことは一般の里人には知らされず、宮廷にだけ奏上された、向田の里に善と悪とがあるときにも同じようにゆれたが、凡人にはそれがわからなかった」とあります。
(この辺は少し肩がこるようないかにも上からこしらえた理屈が見られますね。熱心に作ったと思いますけれど。)