奥山のサクラについて

奥山に桜の彩りを、1993年からの歩み

1993年ごろの奥山には、府道沿いにダムのあたりまで、サクラの木が12,3本ありました。昭和の初期に植えられたと言い伝えられていて、品種はソメイヨシノでした。昭和30年代ごろまでは人々がお花見を楽しんでいたそうですが、やがて植林の杉、ヒノキが伸びて日あたりがわるくなり、弱ったり、病変がひどくて伐採したりして、そのほとんどが姿を消してしまいました。

現在、奥山に見られるサクラは、1993年以降に私たちが苗から植えたサクラです。というのは、正確ではありません、自生のヤマザクラが、奥山の峰、山道の斜面に育っています。それらは皆単独で、開花期もまちまち、野性的です。私たちはこれらの自生のヤマザクラの後を追うようにして、少しづつ、サクラの苗を植え始めたのです。奥山の土地にどんな品種がふさわしいのか分からないままに、いろんな苗を植えてきました。それを可能にしたのは、毎年多品種の桜苗を、配布してくれた財団法人日本花の会の支援のおかげでした。

植えた苗の何割かは、うまく育ちません。枯れたり、土砂で埋まったり、台風でねこぞぎ倒れたり、また、何時までも大きくならない場所もあります。どうしてこんなに成長が違うのかと不思議です。また、10年目に大きく伸びた枝に美しい花をいっぱいにつけて、峠の風景を彩ってくれた3本の八重桜はその後、2~3年たたないうちにそろって枯れてしまって、やむなく伐採しました。どのサクラも奥山では野生化して生き延びるような気がします。

1993秋~2005早春の12年間は、志賀郷地区婦人会を母体に、<奥山・登尾峠に桜を育てる会>を結成し、女性組織の影響力で、地域の各方面の協力を得て、継続事業としてきました。

女性の力で植えることのできる場所、世話をしやすい場所、山の管理者である郷和会が承認する場所、府道の管理者である土木事務所が許可する場所などなど、制約の中で、植える場所を見つけることが、まず、課題でした。その結果、桜の植えてある場所は、15ヶ所以上に分散しています。見栄えのする桜の名所を作るというのであれば、まとまった場所の確保が、今も変わらない課題でしょう。(奥山がそれを望んでいるのかどうか、私には今も分かりません。奥山が主人公、サクラは季節の彩りという考え方でささやかな名所づくりをしてきたように思えます。)

2002年、2003年とヤマザクラばかりを植えたぬた場の尾根は唯一、群桜と呼べる場所ですが、もともと松山であったぬた場の尾根は今、松の芽生えと、植樹したヤマザクラと、自生のヤマザクラとその他の木々(ニオイコブシ)などが混植状態で、今後の管理、運営が課題です。この場所は、日本花の会創立40周年記念事業、「後世に残る桜の名所づくりモデル事業」に指定されています。

志賀郷地区住民の共有山である奥山は、面積は220ヘクタール、これを管理運営する<志賀・郷和会>は、2013年成立したばかりの地縁団体・志賀郷地区自治会連合会傘下の組織として財産が保全され、再出発しています。

「山に良材、郷に人材」を合言葉に、植林・造林の推進と地域自治会への助成、地域福祉の増進、青少年育英事業に、長年にわたってその収益を活用してきましたが、林業の下向きの変化の中で今後の発展の道を探るべく、行政指導のもとに目下、5か年計画森林作業道の新しい建設によって今後の奥山共有林の活性化、多元的な活用ををめざしています。

長年にわたって、地域住民こぞって杉・ヒノキの植林にはげんだ結果、奥山は美林ではありますが、どちらかというと年間を通じて黒っぽい感じの山でした。

この美しい広い山に、サクラの木がところどころにでもあったら、毎年春になったら美しい風景が生まれる、私たちがお花見に上ってこれる、という願いが桜植樹の出発点でした。奥山に彩を加えたい、義務的な山の作業以外にも、奥山に登って山の自然を楽しむ機会を作り出したいという望み。

このような気持ちは、地区婦人会に集う多くの女性の願いとして、ごく自然なものとして受け入れられて、12年間続きました。平均して一年に10本ぐらいしか植えておりません。ささやかな事業なので、継続できたと思います。

地区婦人会が解散してからは、郷和会と自治会連合会との協議もあって、現在のような公民館活動に準じたボランティアによる組織<志賀郷に桜を育てる会>として、再スタートを切っております。ささやかに始まったサクラの植樹が、奥山の自然資源を大切に守る活動の一環として、これからも続いていくことを、願っております。(2013年11月加筆)