‘志賀小学校’ カテゴリーのアーカイブ

「七不思議は生きている」子供たちの質問と梅原諭さんの回答例

2017/05/14

DSCF9513.JPG「七不思議伝説は生きている」

私は最近「志賀郷の七不思議伝説」について、この伝説が現在も生き続けているという実感を持つことが二度ほどあったので、ご紹介します。

その一度目は志賀小学校の4、6年生の児童が七不思議のいくつかについて質問を出して、それへ回答された仁和町の梅原諭さんのコメントを一覧した時です。(梅原諭氏は今年4月急逝され、この回答集は遺稿になりました。)

二度目はやはり昨年末、向田町の竹内繁さんから「向田観音と七不思議、しずく松ゆるぎ松の話」を文章にしたものを渡された時です。

まず、子供たちの質問と梅原諭さんの回答をご紹介しましょう。4年生10名、6年生9名、計19名の質問が出され、そのすべてに回答しておられます。質問はメモ用紙に短時間に書き留められて提出されたもので、梅原さんはそのすべてについて丁寧に思うことを述べておられます。DSCF9508.JPGDSCF9508.JPGDSCF9491.JPGDSCF9497.JPGDSCF9510.JPGDSCF9510.JPGDSCF9512.JPGDSCF9511.JPGDSCF9513.JPGDSCF9516.JPGDSCF9519.JPGDSCF9518.JPGDSCF9522.JPGDSCF9521.JPGDSCF9523.JPGDSCF9525.JPGDSCF9528.JPGDSCF9527.JPGDSCF9530.JPGDSCF9531.JPGDSCF9518-001.JPG

以上、19の質問と回答です。

              「志賀の七不思議」はなぜ「生きている伝説」か (さらに…)

志賀小学校4年生が「志賀の七不思議伝説」を発表(10月22日)

2016/11/21

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志賀小学校4年生10名が今年も中丹学校文化祭「由良川元気サミット」の舞台で元気いっぱいに「志賀の七不思議伝説」について発表しました。七つの不思議のうち、子供たちが選んだのは「ゆるぎ松・しずく松」の不思議伝説。

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明智光秀の命令によって「ゆるぎ松・しずく松」が切り倒される場面です。

倒された松は運ばれて、福知山城の棟木になったと言い伝えられています。

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「ゆるぎ松というのは、風も吹かないのに葉がゆれる松のことです。毎年正月七日の日の出から日中にかけて、葉がゆれたそうです。上の葉がゆれると都にいいことが起こり、下の葉がゆれると都にわるいことが起こったと言われています。」

「しずく松というのは、雨もふらないのに葉からポタポタとしずくが落ちる松のことです。毎年正月6日の午前10時になると、松のしずくが雨のように落ちたそうです。そのしずくの様子は、その年の干ばつや水害などの災害を示していたと言われています。」

「現在の福知山城は立て直しが行われたため、むな木にはこの松は使われていません。その時に取り除かれた松のゆくえは、現在は分からなくなっています。」

「しかし志賀郷の公民館には、しずく松のものといわれている厚さ15センチほどのとてもぶあつい木の皮が、今も大切に保存されています。また、2本の松が生えていたところには、二つの石碑がたてられ、今は三代目の松が植えられています。」

「七不思議伝説は、現在までお年寄りから子どもたちへ大切に語り継がれてきました。ぼくたちもこの伝説を大切にし、今度はぼくたちが広く伝えていきたいと思いました。」

(担任の光枝真穂先生指導の舞台台本から 一部お借りしました。)

志賀小学校4年生が「向田かんのんさんのひみつ」を熱演

2014/12/07

10月19日(日)由良川元気サミットの舞台で熱演した4年生9名  ナレーター、演出、脚本は担任の由良みどり先生 (以下の脚本は抜粋)

出演: あけちみつひで公、おかべやましろのかみ、 その家来、 村人たち、  むこだのかんのんさん

明智光秀: 岡部やましろのかみよ、まことによくやった、褒美を使わそう。別所「願成寺」の滝谷に、たいそう美しく、りっぱな観音さまがあるという。それを褒美に使わそう。大切にするがよい。

岡部山城守: ははあ、ありがたきしあわせ。さっそくわが領土まで運ぶことにいたします。

ナレーター:こうして明智光秀公の命により、観音様は別所滝谷から運び出されることになったのです。そして、向田の長福寺までやってきました。

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観音様:私は、滝谷の観音です。長い間この地の人たちを守り続けてきました。私はこの地から離れたくありません。

家来たち:やましろのかみさま、観音様が動きません、どうしたことでしょう。うーん、どうしたら・・・

山城守:うーん、おかしい。 おや、身体がうごかない。どうしたことだ。

観音様:やましろのかみよ、わたしは、このあすすぎのさとから離れたくありません。この土地は自然豊かでとても良いところです。人々もやさしく平和に暮らしています。わたしはこの土地が大好きです。ここから離れたくありません。

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岡部山城守:皆のもの心配するな。観音様はこの土地をすばらしいと言っておられる。離れたくないそうじゃ。われわれもこの土地で暮らすことにしよう。

ナレーター:こうして観音様は、向田の長福寺におかれることになりました。やがて、観音様がおられる長福寺の裏の山から清水が湧き出しました。その水で目を洗うととても良いといううわさが広がりました。多くの人が目を直そうとこの寺に参るようになりました。

村人たち:ねえ、みんな、ここの観音さまって目にごりやくがあるらしいよ、知ってる? えっほんとなの?わたしもぜひともごりやくにあずかりたいわ。みんなでお参りしましょうよ。 それに今日は、8月17日、観音様がご開帳されるらしいよ。ぜひ、観音様のお姿を見に行きましょう。あっ、観音踊りがはじまるよ。みんなで踊りに行きましょう。P1020538.JPG

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伝説の「志賀の夜嵐」とは? 志賀小学校の「夜嵐新聞」

2014/03/30
P10007842013年8月の終わりから9月にかけて「志賀の夜嵐伝説」について志賀小学校4年生8名に伝える必要に迫られました。
子孫が建てられた墓碑もあり、以前から多くの逸話が伝わっており、「夜嵐」が実在の人物であったことは確かです。
綾部市相生町在住の梅垣昭平氏がまとめられた<伝説 志賀の夜嵐>はその集大成です。この労作を借りて志賀の夜嵐のことを見つめてみました。
(そうすると思いがけず新しい人事、資料も出てきて、戦国時代の志賀郷地域のことが北野城主志賀氏の物語にも照らして、興味ある仮説をたどることができるようになりました。)
まず、ここでは子供たちの労作「夜嵐新聞」をじっくりとご覧ください。夜嵐のことがよくわかります。
あわせて墓碑の写真、白道路のフキガト山から志賀郷方面を眺めた現地の写真、そして文化祭・由良川元気サミットで発表した様子もご覧ください。
この子供たち8名、4月からは5年生です。担任の尾松亜紀先生お世話になりました。
ご一緒に梅垣家を訪問していただいたことも有意義な思い出です。

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10月の由良川元気サミット、11月の志賀郷公民館文化祭でも子供たちによる「夜嵐の劇」が上演されました。

志賀っ子広場で古代史に親しむ

2010/03/24

DSCF7500-12010年2月3日綾部市志賀小学校

綾部市資料館の三好博喜さんが、近くで出土した土器を手に説明する。

綾部市全体では、一千件もの古墳が発見されていることを、しりました。

志賀郷地区には、29件あります。志賀郷地区のすべての町区に散らばっていて、現在の集落がその頃から始まっていた様子がわかります、と現在とのつながりを子供達にわかりやすく、説明されました。