2012志賀郷連続自由講座の記録その1 「向田かんのん」と明智光秀
ブログとは何か 少なくとも記録の一種 ・・と思うので今ごろで恐縮ですが2012年の志賀郷連続自由講座の活動を順次記録します。http://fv-ayabe.jp/shiga/2012/03/18/%e3%82%a2%e3%82%b9%e3%83%91%e3%81%a7%e3%81%ae%e4%bc%9d%e6%89%bf%e4%ba%a4%e6%b5%81%e5%b1%95%e8%a6%a7%e4%bc%9a%e3%81%ae%e3%83%81%e3%83%a9%e3%82%b7%e3%81%a7%e3%81%99/
2012年8月17日(金)「むこだ観音」の日 午後4時~9時半 福知山明智光秀公研究会を迎えて
「むこだかんのん」は夜祭です。火文字と観音踊りを準備して、夜の聖観世音菩薩のご開帳をお迎えします。
志賀郷農協前で歓迎の挨拶(梅原代表)
ここは別所町の熊野神社の境内。舞堂です。右上の細長い部分は義太夫席です
現存するのはめずらしい。(と川端二三三郎先生が解説されました。)
境内で芝居が興行された時の背景の屏風もよく保存されています。これは「千畳敷」という絵。
同じ絵師の背景画が向田観音の舞堂にも数種残っています。
ここは別所町の願成寺。無住のため普段締め切っています。
熊野神社の神宮寺で、明智光秀軍に激しく抵抗したと伝わる。
願成寺滝谷の観音像を戦利品として持ち出したのが光秀の家来の「岡部山城守」。向田で休んだところ、この観音像が動かなくなって山城守も金縛り。そのままその場にとどまって土着して観音様をお祭りしました。というのが向田観音の由来です。
公民館で勉強会です。
綾部市大島町自治会長さんより、大島町に伝わる能楽の名家「梅若太夫」の伝承について伺いました。
梅若太夫の中にも明智光秀に従って合戦に参加した人々がいたとのこと、当時は武芸一体だったんだなあ・・
農民も刀を持つ時代。武家と農家は交代自由の時代・・
この日のスケジュールはすごくハードでした。上記以外に「篠田町の薬師さん」、七不思議の「しずく松・ゆるぎ松」、公民館に保存されている「しずく松の皮」などあちこち案内しました。
志賀の七不思議に出てくる二本の松の伝説は、明智光秀伝説と二匹の蛇のようにからまって、ややこしい。無理やり切り倒されて福知山城の棟木になって運ばれていった。いま向田の森に生えている松は三代目です。
「篠田の薬師さん」も、じつは別所の願成寺から持ち出されたもの、という話がこの見学をきっかけに明るみに出ました。「観音さんは向田へ、薬師さんは遅岫へ」参られたって・・「願成寺文書」に短く書いてありました。篠田の村の薬師堂は八重坂峠の出口にまっすぐに向いています。
「むこだかんのん」の盆踊りは、一定の時刻(昔は深夜12時今は9時頃)に「観音踊り」が奉納されますが、この奉納踊りが福知山音頭の16手のうちの6手にそっくりそのままです。素朴な向田かんのん踊りが福知山音頭のルーツではないかなと私はずっと思っていますがどうでしょうか。という話を、この夜もいいそびれてしまった。 (おわり)
ブログとは何かについて: ブログとは日記のようなもの、書きたいことを日記のごとく気楽に書き続ければいいなんて誰が言ったのか、何で日記を公開するの?変ねえ、とずっと感じていました。 日記とは後から書くものだから、少なくとも「記録」といって欲しかったわ。 記録と宣伝と社交とを一度にするためにはどうすればいいのでしょうか。多分ひとりの私ではこのようなブログ作成では、やりきれないと思います。紙のチラシ、ポスターも必要、同時に、訪ねていってお顔を見て話して進むのが私達の地域活動の姿ですから。
今の私にはこのネット社会こそ不思議の塊ですわ。「ネットの国のアリス」というのあったら教えてよアリス。 ルールとかエチケットとかも一緒に、おねがいよアリス。 2010.10.31記
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