‘2009/07’ カテゴリーのアーカイブ

峠道の保全について、知事へお手紙

2009/07/29

 7月19日の、知事と和い和いミーティング、府民交流会in中丹 の席上、一般府民が挙手をして発言できる機会がありました。 その雰囲気に、わたくしも触発されて、7月1日の「久田美峠で勉強会」のことを、発言しました。

 発言し切れなかったことを、あとでお手紙にして、知事宛に出しました。箇条書きで事務的な文章ですが、早く出したい一心でした。

 この手紙を5人ぐらいの人に見せましたら、3人が「返事が来ると思うよ」、2人が「返事は来ないでしょう」と言っています。私は、来ると思っておりますが、まだ来ません。

2009-07-28-0027-49_edited2丹波と丹後(中丹地方)を徒歩で結ぶ多くの峠道が、今、所々崩れかけながら、ちゃんと残っていること。これらの峠道を保全、復活させたい、今ならまだ間に合いますということ。山中に道があれば、環境保全型人工林の管理にも有用ですねということ。

峠を歩けば、懐かしい地域の記憶、思い出がいっぱい出てくること、年寄りも若者も、峠を歩けば気持ちが明るくなることなどなど、短い文章ではなかなか伝え切れません.(おわり)

知事と和い和いミーティング・府民交流会in中丹

2009/07/28
福知山へ戻ってふるさとの人のためにチョコレートを作りますと話された世界一の職人水野さんの話もよかった

福知山へ戻ってふるさとの人のためにチョコレートを作りますと話された世界一の職人水野さんの話もよかった

さる7月19日、赤レンガの舞鶴市政記念館で「知事と和い和いミーティング」という集会があり、福知山、舞鶴、綾部の3市長も参加するとのことで、興味を持って参加をしました。

未来をつむぐあなたとつなぐ「明日の京都」 ビジョン府民交流会というタイトルで、後半は、会場の参加者が、その場で挙手して、3分程度、発言できる機会がありました。

私は、急に<久田美峠で勉強会>をしたことを、発表したくなって、用意もなかったので、うまくまとまりませんでしたが、とにかく発言をして、峠の保全が必要ではないでしょうかと言うことを、しどろもどろで訴えたのです。それでも、発言して満足しました。

綾部と舞鶴の間の、今は誰も利用しなくなった久田美峠の上で、双方の住民が、峠にまつわる勉強会を開いたことを、話しました。最高齢83歳、老若男女19名が、難儀しながら、なつかしい峠を歩いて、すごく楽しかったことを話しました。

久田美峠の道標

久田美峠の道標

あやべ市民新聞には、特集記事でこの日の<峠で勉強会>のことが紹介されましたが、他の市長さんや知事さんには、話さないと分からないのだ、と思うと、急に勇気が出たのです。 

その後、この日の発言で言い足りなかったことを、知事にお手紙を出して補足説明をしたなんて、私もよくよく峠のことが身に沁みていたのだと思います。誰も省みることのない峠道が、丹波と丹後の国境の山並みを縫って、今ならまだ崩れかけながらでも、あちこちに残っていますということを、訴えたかった。(つづく)

不思議な「嶽山」と、山上の同級生

2009/07/20
水田のあともあって、瓦やお茶碗も落ちていました。

水田のあともあって、瓦やお茶碗も落ちていました。

 市原峠(いちわらとうげ)は、他の多くの峠と同様、今は誰も通らなくなった、幻に近い峠です。綾部市志賀郷地区内の、坊口町、仁和町、西方町、の少なくとも3ヶ所から、大江町の市原谷(福知山市)へ越える道です。峠のある一帯の山を、「だけ」と、みんな呼んでいます。

「だけ」とは、「嶽」と書いて、お山と言う意味です。今の地図では岳山と書かれています。標高368.9。

この山の上に、一軒、家があって、女のきょうだいが、志賀郷の志賀尋常小学校へ通って来ていました、という昔話は、志賀郷の村ではわりと有名な昔話です。峠の向こうの住民でしたが、学校は、こちら側へ降りてきていた、とのことです。

昔話は、ただそれだけで、「嶽」の一軒家から通学していた姉妹のことは、詳しく知らなかったのですが、最近になって、地域の80代、90代の女性から聞き取りをして、この昔話が本当であったことだけは、わかりました。姉妹がひとりかふたりか、話はまちまちです。男きょうだいがいたこと、姉が複数いたことなど。昭和10年ごろまでには、男きょうだいが市原谷に降りてきて、家を建てたので、ちえちゃんたちも降りてきた。と言うところで昔話は終わります。今年92歳のおばあちゃんは、ちえちゃんの一級上やった、山の上の池には鯉がいた、と話しているそうです。

市原谷から峠を越えてお嫁にきた今年84歳の女性の、記憶は、まだ鮮明で、「普通のわら屋根の家やった、山から下りて、市原谷に家を建てたあとも、父親は降りてきたのを見たことはない、昭和20年頃には、もう山の家はなかった。」

これ以上詮索すると、いくら年を経ていても、個人情報かもしれませんね。

ちえちゃんの家では、山の上に、山の中に、水田を作っていたそうです。

「嶽」山に水田があったことは、よく知られていて、坊口町の人々が耕作していたとも言われます。

また、「嶽」山には、寺屋敷、天狗岩、弁天さん、など、いわれのある場所が点在していて、昭和30年の「志賀郷村誌」に記録されている黄金伝説の場所も、ここです。

http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=23

最近、こちら側の何人かが、このあたりを探検していますが、目的は各人各様みたい・・・

私は、難儀な山道を通学してきたちえちゃん達のことを、覚えているおばあちゃんがいることが、うれしくて、何かしら心を励まされる気がします。

ちえちゃんもどこかで、長寿を享受して、志賀小学校の同級生のことを覚えておられますように。   おわり

峠の桜、10ヶ所を草刈り

2009/07/13
峠のエドヒガン(一度折れて又芽を出した)

峠のエドヒガン(一度折れて又芽を出した)

一番高い場所(峠が見える)

一番高い場所(峠が見える)

斜面の桜(向こうの松は枯れました)

斜面の桜(向こうの松は枯れました)

峠の休憩所(下に簡易トイレあります)
峠の休憩所(下に簡易トイレあります)
8時半開始~11時前に終わり
8時半開始~11時前に終わり

桜を育てる会恒例の草刈りです。

奥山・登尾峠の沿道のあちこちに桜が育っていますので、3班に分かれて、移動しながら、合計10ヶ所ぐらいを済ませました。今年は、自治会連合会長、公民館長、産業部長、産業部員などの応援を含め、23名の参加がありました。内、女性は8名。

 

女性を含め、草刈り機を使う人が多く、いつもはできなかったところまで、ちゃんと草刈りできました。この日の草刈り作業が、例年に比べて盛り上がったのは、4月19日のお花見の効果が続いているのかも・・・・。秋の草刈りはぬた場です、お花見効果を継続したいと思います。   おわり。

峠で学習会(何を学んだか)

2009/07/03

石柱発見(腰掛石とは思っていない5月6日)

 

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前日まで日参して準備
前日まで日参して準備

 

 この数十年、地域の人々(むこうは久田美、こっちは志賀郷)は、たぶん誰も通ることのなかった峠、久田美峠(くたみとうげ)の上で、19名もの老若男女が集って、「峠で勉強会」が実現できたのは、どういういきさつがあって、実現できたのでしょうか、ということのほうが、勉強会の内容よりもたぶん、おもしろいし、たぶん大切であると思っております。

でも、2009年7月1日午後、「峠の勉強会」の日が、記念日ということになるのでしょう。記念日の前には、記念されない準備の日々があって、こっちの方がおもしろいのですが、記録されるのはたいてい記念日の方ですね。

 勉強会の内容は、峠のあっちとこっちの、郷土史研究家の先生方の、日頃の研究の成果で、丹波峠(久田美峠)の歴史、峠の腰掛石の由来、久田美峠と軍用トンネル、陣屋岳は山城か、陣屋岳の尾根で採取した弥生時代の石斧、などのテーマでした。質疑応答もあって、比較的分かりやすい勉強会で、参加者は満足したと思います。

この日の参加者の動機は、まちまちかもしれませんが、峠という場所そのものが、人をひきつける力を持っています。峠を大切にしたい。

長い年月、人が通らなかったために、今崩れようとしている峠の道を、直したい、歴史・伝承の勉強もしたい、峠の周りの自然環境も楽しみながら、ということを、しばらく続けてみましょうか。

 五つも、六つもある峠は全部、丹後へ越えます。

<ふるさとは 丹後に近き 道ありき 峠に尾根に 卯の花の咲く>という歌は16年も前の歌で、空想して作った歌です。幻の峠の数々を、現実に訪れることができて、あー生きていてよかった。とおおげさですが、実感ではないでしょうか。ひとりではとてもたどり着けない場所ですから。dscf5033-1

中国語に峠という漢字がないのは、なぜであるか、どなたか教えてほしいです。

沖縄方言ではどうかな、なんて、当てもなく考えています。これは叔母か従妹に電話で聞けば、わかるかも。

峠があって良かった。行き止まりがなくなって、外の別世界へのとびらが開きますから。     おわり。