志賀の七不思議伝説とは?

○志賀郷の七不思議伝説は今からおよそ1400年前、西暦590年崇峻(すしゅん)

天皇のころ、金丸親王が大和朝廷の命を受けて丹波・丹後の「悪鬼退治」に赴く際にこの地を通り、五つの神社をあつく信仰されたことから物語が始まります。(地元に残る文書の中には金丸親王を麻呂子親王と書かれているものもあります。麻呂子親王は聖徳太子の異母弟といわれます。) 

その後、金丸親王の子孫の金里宰相(かねさとのさいしょう)がこの地を治めたとき、宰相は金丸親王の故事を思い起こされて、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願して千日詣りをされ、同時に五つの社にフジ、茗荷、竹、ハギ、カキをお手植えされて、このことを朝廷に報告をされました。この時からお手植えの植物に不思議なありがたい現象(奇瑞)があらわれるようになったといいます。これが七不思議伝説の発端です。

〇金里宰相は三代にわたりこの地を治めた後に都へお戻りになりましたが、五つの植物の不思議な現象はその後も続き、おめでたいことにすべてお正月のついたちから日を追って順にあらわれました。これに「しずく松」「揺るぎ松」という二本の名木の奇瑞伝説が加

わって物語はさらに広がり、古代から中世、近世、さらに現代へと長くつづく「志賀の七不思議」伝説となりました。身近なありふれた草木の上に、人知を超えためでたい不思議な現象があらわれること、そのことによって地域の平安・土地の豊穣への人々の変わらぬ願いを暗示しているのが、この伝説の特徴と言えます。


○麻呂子親王については、鬼退治戦勝記念に七つの寺に七仏薬師を納められたという伝承があり、この伝承は丹波・丹後の各地の寺に広く残っていて麻呂子親王大江山鬼退治伝説の広がりを見ることができます。志賀郷地域では金河内の薬師さん・興隆寺の薬師如来も関係づけられています。

○七不思議の物語は以上述べたように飛鳥時代から説き起こされますが、この伝説の原型が作られ語られたのは西暦1400年室町時代中ごろ、文字に記録されたのは戦国時代の中ごろからと言われています。今、それらの物語の現物は残っていません。江戸時代、明治時代に書写された古文書が数多く伝わっています。 

○七不思議の五つの神社は志賀郷地域全体に広がっています。現在、全部を回るためには車など移動手段と時間がかかります。交通手段の限られていた昔に地域全体を舞台にした伝説が語られたことは、この地がひとつのまとまりを持っていた時代を想像させます。


○五社のうち、阿須須伎神社の「茗荷占い」と篠田神社の「筍占い」は現在まで変わらず継承されています。もとは旧暦正月の3日と4日に行われましたが、現在は2月3日節分と2月4日立春に行われています。厳冬のお宝田の、雪の下から芽を出す茗荷と筍によってその年の稲作を占い、豊年を祈願する年占いと呼ばれる神事です。「茗荷さん」「筍さん」と親しみをもって呼ばれ、米どころならではの不思議な伝統行事です。


○「志賀の七不思議」は全体として文字通り夢のような伝説ですが、歴史の現実と結びついた内容をもち、さらに毎年の米つくりにかける人々の切実な願いと結びついていたために、長い年月を滅びないで現在まで継承されてきました。太古、盆地状の湖底に堆積した粘土質の土壌がこの土地の美味しいお米をはぐくみました。志賀郷は綾部市の西北部に位置し、なだらかな屏風のように連なる山の尾根を越えれば由良川、丹後の海にも近いふるさとです。古代からの稲作と歴史の思い出が残る貴重な伝説としてこれからも語り継いでいきたいと思います。